BUCK-TICK

htms4s2005-10-27


「darker than darkness - style 93 -」再考

櫻井敦司の詞に頻出する、浮遊、飛翔、光、キラメキ、といったイメージは全て“死”のメタファーであり、「die」はまさにその願望を窮極に夢想的なカタチに成就させ、ロマンチックな死を描いてみせた“夢物語”だ。今まで切望していた願いをことごとく叶えて死を迎えるという、出来過ぎなハッピーエンドである。しかし、この曲の音の終息その瞬間に、いやにリアルな感覚を覚えるのは気のせいだろうか。そこには何らかの意図(悪意と言ってもいい)の存在を感じざるをえない。「die」のラスト、まるで宇宙空間に尾を曳き蠢く霊魂の名残りを音像化したようなノイジーな喧噪は、何処かに吸い込まれていくかのようにフェード・アウトし始める。しかしその途中、かなり乱雑なタイミングで何故かカット・アウトされてしまう。この操作は物語上ワープやブラックホールといった、宇宙的、SF的な消滅をも想起させるが、一方で現実的な、その瞬間として、有か無か、を分けるライン(死線)を、曖昧にぼかすことなく明確且つ残酷に提示しているかのようだ。

「die」の音が(夢見心地な我々を正気に返らせるかのように)作為的に切られて、突如現れる静寂。このアルバムの真意が潜むと思われる“無音の闇”への突入である。リスナーの聴覚に無音という“闇”を広げさせるという実に狡猾なトリック。そして、タイトル・トラックを闇の底に潜ませるという大胆不敵(または悪趣味)なアイデア

今作のラストを(マルチ・エンディング的に)アン・ハッピーエンドとして飾るタイトル・トラック「darker than darkness」は、胎生・幼児性・母性・性交のイメージが交錯する、胎内回帰または始原的なテーマを内包し、この上なく血なまぐさい印象を与えている。この「die」と「d.t.d」から読み取れる対比構造、すなわち、“ロマンチックな死”(美)と“グロテスクな生”(醜)という相対関係、これこそがまさに当時の櫻井の死生観そのものの表現であると言えるだろう。また、この「die」→「無音」→「d.t.d」という流れを(死)→(闇、胎内)→(誕生、生)と置き換えてみると、そこには“輪廻”の概念が成立しているとも考えられる。更に、“宇宙空間から地球を俯瞰する”(die)という視点から、“小宇宙(ミクロコスモス)としての胎内または細胞レベル”(d.t.d)の視点へ、というマクロからミクロへのダイナミックなクローズアップは、あの「パワー・オブ・テン」を想起させる一種のサイエンス・フィクションとして捉える事も可能だ。このように考えると、このアルバムにセッティングされた“無音の闇”は、外的宇宙と内的宇宙(または宗教的宇宙観と科学的宇宙観)をリンクさせる役割を持った ーまるで自己の存在根拠を探る人間の心のようなー 無気味な“闇”として機能していると解釈できる。

さて、ここからまた更に深く、解釈、再解釈の無限地獄に足を踏み入れて行く。
「願望が夢の誘発者であり、幻覚的な体験による願望充足が夢の内容である」というフロイトの言葉を都合良く引いてから、「die」はやはり夢である、という説に基づき、より物語に沿って考察してみたい。映画のプロットでは所謂“夢オチ”は最も忌避される手法であるが、『darker than darkness - style 93』のストーリーを考える場合、そのケースには当てはまらないだろう。これまでの全ては夢だったのか、という事ではなくて、主人公は単に物語の最後に自分の最期の夢を見たのである。唄歌いである主人公の男は、浮き世的な苦しみに辟易し、生に冷め(または醒め)、酒や女や幻覚に溺れ、現実逃避を繰り返す苦悩の日々を送るが、ある夜とても素敵な(キミとソラをトぶ)夢を見る。優しい夜に誘われて飛翔するこの上ない安らぎの体験。願望充足としての死の夢だ。ということならば、つまり、この物語の主人公は実際には死んではいない。となるとその後の「闇」〜「d.t.d」という展開については、「眠り」からの「目覚め(唯識的なビッグバン?)」という解釈も加えられる事になり、その構造を更に複雑化させるこの闇の存在は、より深く暗い輝きを増していく。「d.t.d」の詞にある「夢の途中で堕ちてゆく暗闇 いつか目覚めの瞬間を待つ迷い子」という一節だけを抜き出してみると「die」夢説を裏付けるのに大変都合の良いフレーズとして響く。

“カオスの波を滑るサーファーさ 時を裏切れ”

汲めども尽きぬ面白さに満ちたこの不可思議な「闇」の構造・働きについては、更にまだ別の解釈も存在する。論理の錯綜を恐れない私は奔放な想像力の泥沼に溺れていく。この闇は「時間を逆行させる」。
「die」の音が途切れたあと、小間切れの無音トラックが連続し、始めに提示されているナンバー「93」を目指すデジタルのカウントが始まる。しかしこれは言わば、カウンターのカウンター表示であり、我々を錯覚に陥れる眼識(視覚)のフェイクとして作用している。終盤、時空の罅から漏れたような予兆的なノイズが2度入り込むが、その2度目のノイズからは朧げにではあるが「キラメキの中で・・・」のリズムを確認する事が出来る。これはつまり何を意味するのか。「ドニー・ダーコ」または「メメント」的手法は既にこの四次元の闇の中に確立されていたのか。元々「d.t.d」は、闇と影のビデオとして知られる「Climax Together」のSEをRe.Edit(バンド・アンサンブル化)した楽曲である。“FROM DARKSIDE”から始まる暗暗とした映像を導入するSE、ロウ燭の灯りが闇に身を隠すメンバーを映し出していく。闇と闇は時空を超越して繋がり・・・。この理論で行くと、「d.t.d」を1曲目(「キラメキの中で・・・」以前、アルバム以前)にプログラムして全編を聴けば、時系列的にはリニア(直線的)な流れとなり、また少し違ったストーリーの印象が得られるだろう。

“廻る廻る 世界が・・・”

サイバーパンク的要素は、今井寿の創作における性癖とも言えるテーマであり、今作においても補足説明として「人間工学」「自分の孫の世代の若いバンドが演奏しているイメージ」「AKIRA」等というキーワードを出している。「神風」は演劇的構成に独特のスウィング感が伴って疾走する、“反体制”ならぬ“反時空”を唱える、パンキッシュなフューチャリスティック・ジャズである。「Madman Blues - ミナシ児ノ憂鬱」はロック、ヘヴィ・メタルサイケデリック・パンク、レゲエ、ダブを偽悪趣味的に混淆させた所謂ハイブリッドで(近未来世紀のバンドの音は、今井寿の中では完全にブレンド・ジャンル)、“Madman=ミナシ児”とは父母を持たないサイボーグ(義体)、またはAIのバグ・ウィルスそのものの事か。今井寿の天の邪鬼的な性質は、往々にしてバランサーとして機能し、アルバム本編を覆うテーマと照応関係を保ちつつ、櫻井敦司による、憂鬱な私小説のようなスタイルとは全く対照的な角度から、近未来・SF素材を用いたアプローチとして表れ、時空を越えたもう一つのパラレル・ワールドを展開する。また、音響的な面で、空間系エフェクトやダブの手法、唐突なブレイク等を効果的に用いて緩急の“間”を意識させている。これらの事から(「d.t.d」の倒置の仕掛けも合わせて)、今井寿の頭の中(少なくとも意識下)に“時空軸”というテーマがあった事は明白であろう。何よりも、このアルバムの導入が、ギターのリヴァース(逆回転)フレーズであるということが既に象徴的であり、いかにも暗示的ではないか。

メビウスの輪

無限の深さを湛える闇を挟んで並べられた「die」と「d.t.d」。この二つの楽曲間における、“死と生”-“夢と現実”、という対照性の中には共通の主題が潜む。それは言うまでもなく“マザー・コンプレックス”である。胎内回帰願望は、既に「地下室のメロディー」において“アア ユメノヨウ ヤサシイクラヤミ”、“ネムリタイ オマエノナカデ”と赤裸々なまでに露呈されているように、櫻井の詞作における重要なテーマの一つである。自己の起源であり絶対的存在であった母親が、もう二度と逢えない存在となってから、彼のアイデンティティーは見事なまでに崩壊する。罪意識を一身に背負い込み、幸せから逃避し、無意識に償い続ける贖罪スパイラル(所謂「道徳的マゾヒズム」)に陥り、自虐的、自爆的な思考が繰り返される。「die」はそのような精神状態が創り出した幻想詞で、失ってしまった、あるいは別れた対象が、また自分の目の前に現れるという、「別れと再会」「死と再生」というものに関わるこころの営みの現れであると考えられる。櫻井のこころの中では、母親は死であり、死は母親である、といった投影現象が起こっており、そのため「死」はこの上なく優しくロマンチックなものとして美化されて描かれ、罪深い自分のいる「生」は穢れていてグロテスクな世界として醜く描かれている。空から降り立つ“君”とは、母親でもあり、それはまた、死でもある。この「再会」を思わせる一節だけを見ると死への願望(または胎内回帰願望)が成就されているようにも思える。しかし、“ここでお別れしようよ”、“もう二度とは帰れない 生まれてきた あの海へ”というラインからは、先の再会の打ち消し、胎内回帰の諦め、つまり「母親との決別」と「生への決意」という意思として汲み取ることもできる。この、「生」か「死」かで揺れ動き、どちらに行くともわからないような不安定なこころの状況は、心理学でいうところのクライシス(こころの危機)、つまり、その危機を乗り切るか、または崩壊していくかの分岐点であり、この実に夢想的な「die」の詞からも、当時の櫻井の衰弱しきったリアルな精神状態を窺い知ることができるのである。「生」と「死」に関するドリーミー且つパラドクシカルな物語を聴き終えると、リスナーは唐突に無音という闇の中に放り出されてしまう。私達はその闇の中で弄りもがくうちに、“終わりのない終わり”という“答えにならない答え”(完全なる決定不可能性)に到達し、ついには自分の居場所を探して(本当の)心の闇に溶け込んでゆくのである。

ウロボロスの蛇


“そう あれは永遠だった 熱い海の微笑み すぐに消えた”

決して叶う事のない願望は、絶望として永遠化され・・・



(このパラノイド・パラグラフは、93%のユーモアと7%のペーソスで出来ています。用量、用法を守って、適当にお読み下さい。)


text by イル・カネック 05. 10. 26 - tigers 4 lost -