『ジュリアン』

いきなり余談ですが、部屋のフレームポスターをバニーボーイからキララちゃんに変えました。日本人意識の芽生えでしょうか、気紛れな…
さて、
『ジュリアン』、京都では一月程前に公開されました。『ガンモ』は確か公開初日に観た記憶があるのですが、今回は何故か「ビデオでもいいか…」という消極的な姿勢(得意)を見せていた節もあったのです、実は。「ドグマ製作といってもハーモニーは元々そんな撮り方だし、どーせ更に抽象的な感じになってて…云々」恐らくこのような理由と時間の都合、鑑賞料金の問題、そんな感じの、まぁ我ながら真当といえば真当な理由で(愚図)後込みしていたのです。しかし、その日は死にたい程に鬱鬱しく、僕は“救い”というよりは寧ろ何等かの“体験”を求めてそこへ向かっていました。公開最終日、確か月曜の夜、例によって最後列の中央の席に座り、ミルクティーウォークマンを体に巻き付けてスクリーンと対峙したのです。
ハーモニー・コリンは、やはり間違いありませんでした。今作は10ページ程あった脚本の中からセリフを全て削除、シーンだけを残し、後は演者の即興によりストーリーを構築していくという彼らしいとても刺激的なアプローチで製作されたそうです。静止画像やポラロイド写真を取り込んだ実験君的な試みや、何台ものデジタルカメラ(撮影は「セレブレーション」や「ミフネ」のアンソニー・ドット・マントル)による分裂的な映像など、これらはあくまでも(誰でも選択可能な)手法による革新性に過ぎないかもしれませんが、ハーモニー独特の印象的、且つどこか詩的な残像を確かに植え付けられました。
精神分裂病のジュリアンを演じたユエン・ブレンナー(「トレスポ」、「スナッチ」)は、難しいキャラクターの即興演技に備えて実際に精神分裂病患者の施設で4ヶ月に渡りアシスタントを務め、そこで患者達に芸術を教えたそうです。紙一重なその迫真の演技は本当に素晴らしく、あの不安定な表情に観客は自然と惹き付けられるでしょう。姉のパール役を演じたクロエ・セヴィニーの朧気な輪郭の存在感も危うく儚い。『ガンモ』同様、今回もドキュメンタリー的な素人の“素”の演技(?)がコラージュされています(というか…)。その中でも身障者がフリースタイル(ラップ)で自分達をレぺゼンするシーンが印象的でグイグイ引き込まれました。あ、あとジュリアンが“カオス”という言葉を多用した自作の詩を父親(ヘルツォーク)に聞かせるのですが、「連呼してるだけで韻も踏んでない」と冷たく罵られるシーンも。
当初の僕の安易な予想に反して(当然)、今作は『ガンモ』の単なる延長線上的作品などではなく、実際はより人間的で複雑なプロット(ある)を内包した、とてもエモーショナルな映画で、結局色々な事を考えさせられてしまったのでした。
帰り際、ポスターを買おうと思いましたが売ってませんでした。